「親切」と「ありがた迷惑」って、どこで線引きされるんだろう。
最近、そんなことを考える出来事が何度かありました。
誰かのために動いたつもりなのに
相手にとっては「そこまでしてほしくなかった」と感じることもあります。
反対に
「余計なことをしないほうがいいかな」と遠慮していたら
実は誰かが困っていた……ということもあります。
そう考えると、「親切」って、けっこう難しい。
今回は、私自身の「やってあげすぎた話」や「手を出すべきか迷った話」
そして「良かれと思ってされたことに、ちょっと待ってと思った話」まで。
いくつかの出来事を振り返りながら
「ありがた迷惑」と「親切」の境目について考えてみました。
自由研究を「やってあげた」母
まずは、私自身の失敗談から。
夏休みの自由研究って、親にとってもなかなかの難題じゃないですか?
夏休みは意外と短い。
子どもは学童や習い事、学校の夏期講習、週末は野球。
しかも、本人は自由研究にそれほど興味がない。
「どうするの?何か考えてる?」と聞いても、
「知らん」
「分からん」
……。
そして気づけば、提出まであと数日。
最終的には、私が模造紙を前にして考えることになりました。
中学生になってからも似たようなことがありました。
作文を出せば成績にプラスになる。
パソコンでレポートを作れば、技術の評価も変わるかもしれない。
もちろん、子どもは音楽家になるわけでもないし
技術の成績が人生を左右するわけでもない。
でも、親としては
「せっかくなら、やっておいたほうがいい」と思ってしまう。
そして私は、パソコンに向かってしまう。
「一応、あなたのレベルに合わせて作っておいたで」
すると子どもは、
「やろうと思ってたのに……。ま、えーけど……」
その言葉を聞きながら、私は思いました。
ほんまに?ほんまにやろうとしてた?
でも、もう作ってしまったものは仕方がない。
ところが、学校が始まって一週間ほどしたころ。
子どもが帰ってきて、こんなことを言いました。
「先生がな、ネギのレポート、学年でトップレベルやったって言ってた」
そのときの子どもの顔が、なんとも言えない。
「母さん、あれはやりすぎやで……」
そんな顔に見えました。
……はい。
完全に、やりすぎました。
親切のつもりだったけれど
子どもが自分で考えて、自分で作る機会まで奪ってしまった。
「やってあげる」と「助ける」は、同じではないんですよね。
「できない」と言われたとき、手を出すべきか
もうひとつ、仕事をしていたときの話があります。
私は以前、法律事務所で働いていました。
特に刑事事件は、時間との勝負になることがあります。
あるとき、急ぎの仕事をパートさんが担当することになりました。
担当の弁護士から指示を受けて、その弁護士は遠方の裁判所へ。
私はその事件の担当者ではありませんでした。
だから、細かい事情までは分からない。
でも、なんとなく心配だったんです。
「弁護士からの指示だけで、最後までできるかな……」
そんなことを思っていると
午後4時ごろ、共有メールに連絡が入りました。
「相手が言っていることがよく分からず、できませんでした」
私はメールを見て、思わず心の中で叫びました。
「ちょっと待って!
いや、『分かりません、できません』じゃないねん。
だったら、なんで先輩の私に聞かないの……?」
でも、ここで私がすぐに、
「何が分からなかった?状況を教えて」
と声をかけたら、また「バカにされた」と感じるかもしれない。
どうしよう。
そんなことを考えていたとき、弁護士から電話がかかってきました。
「メール見ましたか?
もう、彼女のことは気にせず、仕事を引き取ってください。
とにかく調べて、できるところまで進めてください!時間が本当にないので」
その時点で、残された時間は1時間もありませんでした。
私自身も、その仕事をまったくやったことがなかったわけではありません。
でも、完全に経験がある仕事でもない。
それでも、依頼者に迷惑をかけるわけにはいかない。
私は仕事を引き取り
彼女がどこまで相手と話をしていたのか
何を確認したのかを聞きながら
できるところまで進めました。
結果的には、なんとか間に合わせることができました。
「できる」と「得意」は違う
たぶん、あのとき彼女のプライドはかなり傷ついたと思います。
彼女はとても勉強ができる人でした。
机の上で考えることや、知識を使うことは得意だった。
たとえば、利息の計算などは本当に早くて正確でした。
でも、知識があることと、それを実際の仕事の場面で使えることは
必ずしも同じではありません。
人には、それぞれ「得意なこと」と「苦手なこと」があります。
だから、あのとき私が手を出したことが
すべて「ありがた迷惑」だったとは思っていません。
あの場面では、依頼者のために誰かが仕事を進める必要があったからです。
以前書いた「できる」ということについての記事でも
私は「できる=最初から完璧にできる」ではないと書きました。
「できる」の基準は人によって違う|完璧じゃなくても「できる」と言っていい理由
人には、それぞれ適材適所がある。
だからこそ、「できないからダメ」でもないし
「できる人が全部やればいい」でもない。
手を出すべきときと、見守るべきとき。
この見極めって、本当に難しいなと思います。
「子ども会、なくしたほうがいいと思っていますよね?」
もうひとつ、ちょっとモヤッとした出来事があります。
子どもが野球チームに入っていたころ
地域の子ども会にも参加していました。
ただ、野球があるので
子ども会の行事への参加率は1割にも満たない。
それでも、子ども会の加入は必須。
子どもの人数も少なかったので
下の子が6年生になったとき
私は役員をすることになりました。
しかも、子どもたちは野球の練習に行っているのに
親だけが子ども会の行事を運営する、という不思議な状態。
夏祭りでは、2人の手伝いが必要でした。
ちょうど野球の合宿と重なっていたので、私は参加できません。
6年生の親として野球のほうについて行く必要があったし
役員でなくても・・・
私は子どもたちが楽しそうにしているのを見るのが好きだったので
そちらに行っていたと思います。
一緒に役員をしていた人が
「私と夫でやりますよ」
と言ってくれたので、私はとても助かりました。
その人は、行事にも積極的に関わってくれる人でした。
だから、私は「ありがたいな」と思っていたんです。
ところが、年度が終わり、次の役員を決める場で
その人が私の名前をだし、突然こう言いました。
「子ども会、なくしたほうがいいと思っています。
○○さんもそう言っていましたよね?」
私は思わず、
「私、その話、全然聞いてないんですが……。
事前にそういう提案、受けていましたっけ?」
すると、
「いや、話したことはないけど、実際、いらないと思っていますよね?
あれだけ子どもが参加しないのに、役員やらされるって……」
と。
確かに、その意見には一理あります。
子どもがスポーツクラブに入っていたり
受験を控えていたりすれば
地域の行事に参加できない家庭もあります。
そんな家庭に
「子ども会に入っているんだから、役員をしてください」
と言うのは、負担が大きい。
私自身も、そこは「どうなんだろう」と思っていました。
でも、だからといって
「子ども会そのものがいらない」とまでは思っていませんでした。
近所にどんな人が住んでいるのか。
どんな子が同じ地域にいるのか。
大人が子どもの顔を知っていること。
「あそこの角の子、いつも挨拶してくれて、いい子やなぁ」
そんな、顔が見えるつながりも大切だと思っているからです。
だから、その人が
「私のために」子ども会をなくそうとしてくれたこと自体を責めたいわけではありません。
むしろ、良かれと思ってくれたんだと思います。
ただ……。
私が何を思っているのかを、私に聞かずに決めてしまったこと。
そこに、私は少し引っかかってしまったんです。
スーパーで出会った「親切な人」
そして、今度は「私が勝手に勘違いした話」です。
スーパーで、卵の特売をしていました。
「お一人様1パックまで」という特売です。
私は特売の卵を手に取りました。
すると、近くで男性がうずらの卵を持ちながら、特売の表示を見ていました。
その目の前の棚には特売の卵がありません。
でも、すぐ隣の棚には同じ特売の卵が並んでいました。
私は、「あ、場所が分からないのかな」と思って、
「特売のは、その隣のもそうだと思いますよ」
と声をかけました。
すると、その男性は、
「いや、これが(うずら卵)違う場所に置かれていたから、
直したほうがいいかなと思って……」
と。
あ。
そういうことだったのね。
その人は困っていたわけでも、特売の卵を探していたわけでもなかった。
「ここにあるべきものが違う場所に置かれているから、戻してあげよう」と思っていただけ。
私は勝手に「困っている人」だと思い込んで、
助けようとしてしまった。
でも実際には、その人のほうが、ちょっとした親切をしていたんですよね。
「親切」と「ありがた迷惑」の境目って、どこなんだろう
こうして並べてみると、なんだか面白い。
自由研究では、私は「子どものため」と思って
やりすぎた。
仕事では、相手のプライドを傷つけるかもしれないと思いながらも
手を出す必要があった。
子ども会では、相手は私の負担を減らそうとしてくれた。
でも、私の考えを確認せずに「こう思っているはず」と決めてしまった。
スーパーでは、私が勝手に相手を「困っている人」だと勘違いした。
全部、「親切」に関係しているようで、少しずつ違います。
だから私は
「親切」と「ありがた迷惑」の境目を、ひとつのルールでは決められないと思っています。
助けることが正解のときもある。
見守ることが正解のときもある。
本人に任せたほうがいいときもある。
そして、どうしても誰かが手を出さなければならないときもある。
だからこそ、難しい。
親切をやめたいわけじゃない
じゃあ、「ありがた迷惑にならないように、もう人を助けるのはやめよう」と思うかというと
もちろん違います。
私は、人に頼ることも大切だと思っています。
一人で全部抱え込むより
誰かの力を借りたほうが、物事がうまく進むこともある。
以前の記事にも書いたように
一人なら60までしかできなくても、誰かと一緒なら90までできることがある。
人に頼るのが苦手な人へ|「迷惑をかけたくない」が自分を苦しくする理由
だから、「人に頼らない」「人を助けない」が正解ではない。
むしろ、
「手伝おうか?」
「必要だったら言ってね」
「これ、私にできるけど、どうする?」
そんなふうに
相手が選べる余白を残した親切ができたらいいのかもしれません。
もちろん、それだって万能ではありません。
急いでいるときには、そんな悠長なことを言っていられない場合もある。
だから、やっぱり親切って難しいんです。
「あなたのため」は、あなたが決めるものじゃない
今回いろいろ考えてみて、私が一番感じたのは、
「相手のため」と「自分が思う相手のため」は違う。
ということでした。
「あなたのためにやっているんだから」と言われると
なんとなく断りづらい。
でも、本当に相手のためなのかどうかは
相手にしか分からないこともあります。
逆に、「これは余計なお世話かな」と思って何もしなかったことで
誰かが困ってしまうこともある。
だから私は、親切を完璧にしようとは思いません。
失敗しながら、時にはやりすぎながら(笑)、
「相手の余白を残した親切」
ができるようになればいいなと思っています。
……とはいえ。
自由研究を前日に仕上げてしまった私が言っても、説得力ないですけどね(笑)。
人との距離感って、本当に難しい。
でも、だからこそ面白いのかもしれません。
「相手のため」と「自分が思う相手のため」は違う。
このことだけは、これからも忘れないでいたいと思います。
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